ピンポン外交40周年記念会
小さな白球が拓いた大きな友好
―ピンポン(乒乓)外交40周年記念会―
ピンポン外交の価値
「ピンポン外交」と聞いて、「ああ、あの時の…」と言う人もだんだん少なくなっている。
それもそのはず、ピンポン外交の名で知られる「第31回世界卓球選手権大会(名古屋大会)」が愛知県体育館で開催されたのは1971(昭和46)年3月28日~4月7日。なんと今から40年も前のことなのだから。
しかし、それほど以前の出来事にもかかわらず、そこで繰り広げられた民間外交の価値は、むしろ年を経るほどに重みを増している。
舞台は1971年の愛知県体育館
ピンポン外交は、1971年の世界卓球大会の開催地が名古屋に決まったことからスタートした。
世界卓球大会名古屋大会の最高責任者は、後藤鉀二 (ごとうこうじ:日本卓球連盟会長、愛知工業大学学長) 氏(1906-1972)。後藤氏は、世界最強の実力を持ちながら、政治的理由から世界選手権に参加していなかった中国チームの招聘を、何としてでも実現しようと動き始めた。卓球で世界一の実力を持つ中国チームのいない世界選手権はあり得ないと考えたからだ。だが、その前には大きな壁が立ちふさがっていた。
中国は、当時「中国は2つではない。中国はあくまで1つ」という立場から、台湾が加わるスポーツの国際大会には参加を拒否していた。名古屋で行われる世界卓球選手権大会に中国を招聘するなら、今まで世界大会に参加していた台湾を招かないという判断が必要である。しかし、当時の日本政府は台湾の国民党政府を「中国」として承認していたため、話は難航する。「国の援助を受けている卓球協会が、国交のある台湾ではなく、国交のない中国を招くのは問題ではないか?」と、周囲は中国チームを招くことには批判的だった。
しかし後藤氏は、「隣の大国である中華人民共和国との友好は、今後の平和のためにも絶対に必要なことだ」という信念のもと、台湾ではなく中国へ招待状を送った。しかし、中国政府からの返事はなかなか来ない。そこで後藤氏は自ら北京へ赴き、中国政府に対し「卓球を通じて日中の友好を深めよう。それが将来の日中国交正常化の架け橋になる」と説得した。対面したのは周恩来総理。後藤氏の熱意に打たれた周総理は「後藤氏のような友好人士は支持しなければならない」と最終決断を下し、中国の世界卓球大会参加が決まった。
中国と日本、アメリカの国交回復のきっかけに
世界大会に中国選手団を招いた成果は、意外なかたちで実った。中国代表団のバスに間違って乗りこんだアメリカ代表団の選手が、中国選手に親しく声をかけ、握手を交わすというシーンが生まれたのだ。
これをきっかけに、その後アメリカ選手団は北京を訪問。そこで受けた熱烈な歓迎は、中国側からの「中米関係改善を望む」というサインだった。アメリカ側は中国の意思を理解し、当時のアメリカ大統領補佐官・キッシンジャー氏の極秘訪中を経て、1972年2月にはニクソン大統領の中国訪問が実現。それが1979年のアメリカと中国との国交樹立に結びついた。
また、1972年9月には日本の田中角栄総理も中国を訪問し、日本と中国の国交正常化が果たされた。
後藤氏の熱意が中国卓球チームの参加を実現させ、さらにそれが米中、日中国交回復という大きな歴史的転換点をつくりだしたのだった。もし、この大会への中国選手団の参加がなければ、米中、日中の国交回復はもっと遅れ、中国の国際舞台への登場もずっと後になり、世界の現代史そのものも変わっていたのではないだろうか。
40年前の「ピンポン外交」の歴史的意義は、今なお燦然と輝いている。
(*登場した方の肩書きは1971年当時のもの)
ピンポン外交40周年の華やかな記念会
桜の花が満開の時期を迎えた2011年4月10日、名古屋城の前に建つホテル、ウェスティンナゴヤキャッスルで『ピンポン外交40周年記念会』が開かれた。
中国駐名古屋総領事館、日本中華総商会、愛知県日中友好協会主催で、中部日本華人卓球協会、愛知県卓球協会が協力したこの会の参加者はおよそ400人。
張立国駐名古屋総領事の他、東京から程永華駐日本国特命全権大使も参加、日本側からは大村秀章愛知県知事と河村たかし名古屋市長も揃い踏みで出席するなど、華やかな会は2時間にわたって続いた。
中国人は恩を忘れない
最初の挨拶は張立国駐名古屋総領事(58)。東日本大震災の犠牲者に黙祷を捧げたあと、流暢な日本語で、1971年のピンポン外交が両国民にいかに多くの実益をもたらしたかについて語り、「中国人は水を飲む時、井戸を掘ってくれた人の恩は決して忘れません(飲水不忘掘井人)」と、後藤鉀二氏の功績をたたえた。
続いての登壇は、後藤淳(ごとうあつし:後藤鉀二氏娘婿、愛知県日中友好協会会長)氏(82)。
まずはこの日午前中に、愛知県体育館で日本中国親善卓球大会が開かれたと報告。中国側10、日本側30のチームと張総領事も参加し、試合は和気藹々とした雰囲気で行われたという。愛知県体育館はまさに1971年の世界大会が行われた会場だけに、元選手達にもさまざまな感慨があったことだろう。
後藤淳氏は、「40年前の世界大会を通じて日中友好の道が開かれたその意義を、これからの若い人に伝えるのが私の仕事の一つ」と話し、「40年前にも、選手の皆さんと一緒に名古屋城へ桜を見に行ったという、いい思い出があります」と懐かしそうに語られた。
日本と中国は一衣帯水の友好的パートナー
来賓紹介のあとは、程永華駐日本国特命全権大使(57)の挨拶。大使の日本語もまた完璧で、日本人がスピーチしているのかと思うほど。
中国卓球チームを世界大会に招いた後藤鉀二氏について「民が官を促し、小球(ピンポン球)をもって大球(地球)を動かした」とたたえ、「国家友好の原動力は民間にあるとますます強く感じている」と強調した。また、東日本大震災に対して、「中日両国は一衣帯水であり、戦略的互恵関係を結んだ友好的パートナー。中国政府と国民は日本の災害を我がことのように心を痛め、出来る限りの援助をしたし、今後もそうするつもりです。私達は被災地が一日も早く困難に打ち勝って、美しい郷土を再建できるよう、心から願っています」と思いやりあふれる言葉で締めくくった。
次いで、張立国総領事から大村秀章愛知県知事へ、震災義援金の目録が贈呈された。
日本側からは大村知事(52)が挨拶に立ち、「今朝、40年前に世界大会があったと同じ愛知県体育館で、中日親善卓球大会が開かれました。こうして40年後にまた日本と中国の卓球交流ができることはまことに喜ばしい」とスピーチ。そして「私は今日の春爛漫、天下一の名古屋城を象徴する桜色のネクタイをしてきました」という言葉で参加者の微笑を誘った。近年愛知県からは江蘇省を始め中国に500近い企業が進出しており、極めて深い経済交流がある。両国が重要なパートナーであることを強調し、知事が国会議員時代には中国の青年500人を招いて交流したという思い出も語った。
大村知事の挨拶のあとは、厳浩日本中華総商会会長(49)による献盃(乾杯ではなく、大震災への哀悼と復興への思いをこめて献杯という言葉が使われた)で式典は終了し、さっそく和やかなパーティが始まった。
盛り上がる会場
パーティ会場には日本語と中国語が響きあい、日中友好の熱気があふれた。大阪から駆けつけた鄭祥林大阪駐在大使、村岡久平日中友好協会理事など重鎮の他にも、トヨタ自動車の名誉会長で、現在は日中投資促進機構会長を務める豊田章一郎氏など経済人の顔も多く見られ、この会がさまざまな分野から重視されている様子が伺えた。
お揃いのブレザーを着た愛知県卓球協会のメンバーはおよそ30人、午前中に行われた中日親善卓球大会の興奮がまだ残っている様子。卓球の身振り手振りも加えて、自分たちの成績を楽しげに披露し合っている。あちこちで乾杯のグラスが干され、カメラのフラッシュが光り、日中双方のマスコミ陣が会場を走り回って、パーティは桜花の季節にふさわしく陽気に盛り上がった。
40年前の大会で活躍した日本の女性選手たち
パーティの中で目立ったのは、あちこちから記念撮影をせがまれていた3人の女性達。なんと彼女たちは40年前の世界大会で、女子団体戦に出場し中国を破って優勝したメンバーだという。その後の世界選手権で、日本はずっと中国に負けている。つまり彼女達は「団体戦で中国を破った最後の選手」という、輝かしい実績の持ち主だったのだ。
大関行江さん(61)、今野安子さん(61)の2人は、当時の様子を楽しそうに話す。「中国チームはまず来ないだろうという予測だったから、参加が決まったときは嬉しかったわね」「何しろその頃の中国の強さは別格だったので、偵察に行ったコーチは日本が勝つなんてありえないと言うし、『勝てっこない』と思って、かえってプレッシャーが少なかった」「無我夢中でやって、気がついたら勝ってたって感じ」と屈託がない。何しろ当時は、大関さんも今野さんも21歳の学生だったのだから無理もない。
小和田敏子さん(63)だけは、少し年上の23歳で、中京大学助手という立場。1969年ミュンヘン大会女子シングルス優勝選手という実績のある選手だったので、プレッシャ―も大きかったのだろう。「中国には、ボールに強いバックスピン(逆回転)をかけるカット打ちのうまい選手がいると聞いていたので、試合前に一日中カットの練習をしていて肩を痛め、当日は痛み止めを打ちながら試合をしたんですよ」と苦笑。勝ったときの気持ちは?と尋ねると、「嬉しいというよりも、ホッとした気持ちのほうが強かったですね」。
2006年、小和田さんは大会35周年記念に上海へ招待された。「そのときの歓迎は本当に熱烈だったので、中国が歴代のチャンピオンをいかに大事にしているかがよくわかりました」。小和田さんには、後藤鉀二氏の思い出もある。「愛知工業大学に練習に行くと、練習場の真ん中にデーンと座って鋭い目で選手を見ていらっしゃるんです。最初のうちはちょっと怖かったけれど、話をするようになったら、とっても心の温かい方だとわかりました」。
現在は中京大学国際教養学部の教授であり、日本卓球協会の理事も務める小和田さんは「若い人たちにピンポン外交について話すと、結構興味を持って聞いていますよ」と微笑んだ。
ピンポン外交のことを知らない中国人はいない
来賓の1人、日本新華僑華人会会長で東京理科大学教授の陳玳珩さん(64)。日中国交回復後の1980年、国費留学生の第1号として来日したという。
「ピンポン外交のことを知らない中国人はいないよ。日本人が苦労して中国チームを大会に呼んだから、こうしていろんな交流が生まれたんだね」と40周年を喜ぶ。「中国人は卓球が大好き。学校でも会社でも空き地でも、どこにでも卓球台があって、みんなでやってるんだよ。知ってる?」と明るく尋ねてこられた。
ピンポン外交の事を中国人はよく知っている。しかし日本人はどうだろう。世界大会が行われた愛知県ですら、このピンポン外交の意義について語られることは少なくなっている。戦後、日中友好の基礎を作ったといってもいい、このピンポン外交の事を後世にきちんと伝え、その根底にある精神を風化させないようにすることはとても大事なのでは…と、陳さんの言葉を聞きながら、考えさせられた。
スラリと美しい名古屋市立大学の女子留学生、楊光心さん(23)。ちょっと首をすくめて、「実は私、ピンポン外交のこと、あんまり知らなかったです。大学の先生が『だったら、ぜひ行ってきなさい』というので記念会に来ました。でも、話を聞いていて、ほんとに素晴らしいことが愛知であったんだなぁとわかりました」と素直な感想を語ってくれた。
日本と中国の友好の歴史を、未来につなぐ
後藤鉀二氏をはじめ、多くの人がさまざまな努力を重ねて実現した1971年の「第31回世界卓球選手権大会(名古屋大会)」。この大会を舞台に繰り広げられた日本と中国の友好の深まりはピンポン外交と呼ばれ、その後の世界に大きな影響を与えた。それだけでなく、「国と国とが仲良くするには、民間の熱意と交流が何より必要」ということを語る、よきお手本にもなった。
国同士は、時には利害を異にして対立し、紛糾を重ねることがある。しかし、普通の人々同士の交流や好意は簡単には途切れないし、対立を解消する大きな力にもなる。
私達はピンポン外交の経験と歴史的な意義を忘れず、長く語り伝えることで、日中友好と平和を守る礎(いしずえ)の上に、次の時代の交流を育てる必要があるだろう。そしてピンポン外交を導いたのが、後藤鉀二氏という名古屋人であったこと、ピンポン外交の舞台が、東京でも大阪でもなく愛知の地であったことを誇りに思いたい。
後藤氏がピンポンの小さな白球で新しい日中の友好関係をつくりだしたように、ピンポン外交の経験を日本と中国の関係の創造的未来につないでいくことこそ、今まさに求められていることではないだろうか。
ピンポン外交40周年記念シンポジウムのお知らせ
タイトル:『これからの日中関係をどう築くか―ピンポン外交の歴史を振り返って』
(日中関係学会、中日関係史学会共催。国際交流基金支援事業。
日中友好協会、東海日中貿易センター、愛知工業大学、
中日新聞社、東海テレビなどの後援)
パネラー:日中関係の第一人者6名(中国側、日本側各3名)
日時 :2011年6月24日(金)午後1時30分~4時30分
場所 :名古屋商工会議所